大阪の建築家 石丸信明

子供の居場所

屋上を遊びの空間に

子供の遊びの空間は大きく、内部と外部に分けられる。自分の家や友達の家が内部。自然スペース、原っぱ、道、児童公園などが外部である。小学校低学年までは、内で遊ぶことと同じように外で遊ぶことが重要だ。

ところが都市部では、子供が遊べる外部空間は確実に減少している。自然スペースとしての海、山、川は大抵、遠いところにあり、日常的に遊ぶ範囲内にはな い。遠足や、家族で車で出かける距離である。原っぱも私の子供のころのように勝手に入って遊べる雰囲気はない。ましてや道は車が多くなり、おちおちケンケ ンや三角ベース?をやっていられない。

そこで考えられるのは、屋上空間である。1920年代に、ル・コルビジェは、近代建築の5原則を 提唱した。ピロティ、屋上庭園、自由な立面、自由な平面、横長の窓である。それは、それまでの古典的な建築のイメージを払しょくするための提案だったのだ が、その中に屋上庭園があった。52年に完成したル・コルビジェ設計のマルセイユユニテ・ダビダシオンは、集合住宅や、ホテル、店舗などが1棟に入ったい わゆる複合ビルであるが、その屋上には、幼児が遊ぶプールや日光浴場、テラスが設けられていた。何組もの親子が集い、子供をプールで遊ばせる写真は、今の 日本の都市部における子供の遊び場を示唆しているようだ。

都市型住宅において、屋上を子供の遊びの場にしてみてはどうだろう。屋根だけ であるよりはコストがかかるが、夏は、ビニールプールを設置し子供が楽しむことができる。居心地のよい安心できる遊びの空間となりうる。また、庭と考えれ ば、ガーデニングを楽しんだり、デッキにしてリラックスの場として生かすこともできる。

テレビゲーム等の普及に伴い、子供が外で遊ぶこ とを積極的に行わなくなってしまった。私自身、都市環境を考えると、何か設計や計画された建物が増えるほど、都市計画が進めば進むほど、結果的に子供の遊 びの場を奪っているのではという職業上の矛盾を抱え込んでいるのではと考え込んでしまう。子供の特権の場である秘密探検基地は、おとなが与えることはでき ない。せめて都市型住宅において、屋上を子供が遊べる外部空間として考えられないだろうか。
1999年8月19日(木曜日)  毎日新聞掲載

育ちの場にこだわりを

コンビニエンスストアが、あちこちに開店し、特に都会の単身者の住まい方が変わってきている。ワンルームマンションに住むと、例えばキッチンの機能はコンビニが代行するし、居間の代わりに喫茶店で友達と語り合う。外食産業は成長を続け、洗濯もコインランドリーで済ます。家の機能を都市が補完するようになり、極端なことを言えば、家は寝に帰るだけになってきている。住宅と都市との関係が明らかに変容してきているのだ。

子供がいる住宅の場 合はどうであろうか。現在の子供は、豊かな時代にモノに囲まれて生きている。高校生にもなると、その持ち物はほぼ、大人と同じ内容になり、中でも次の時代 に子供室のあり方を変える存在は、恐らく携帯電話とインターネッであろう。この二つは、情報を非常に個人的なものにし、一見均質で大量の情報が得ることが 出来る。

この情報革命は、住宅の在り方や家族の在り方を変える可能性がある。 今までは、「家」という枠組みを通過して、社会とコンタ クトを取っていたのが、直接外部と接触し、関係を成立させることができるようになる。具体的には、今までは住宅の中に電話の場所があり、そこからもれてく る会話や取り次ぎの際に、ある程度親がコントロールすることができた。親は子供と社会の接触を理解することができた。しかし、外部から直接子供に入ってく る携帯電話は、親のコントロールを不可能にし、接触の中身を想像する糸口さえ与えない。

このような、「家」の機能を喪失する状況を受け入れるなら、もはや住宅は各個人が寝泊まりできる部屋が数個あるだけで成立するのかもしれない。しかし子供を育てる場として住宅を考えるなら、やはりこだわりや個人の思いといったものが必要ではないだろうか。

Nさんは、自分はサラリーマンなので家業を子供に継がせるわけでもない、だから家は子供に唯一残すものとして、何より自分が納得できるものにしたいと設計 の依頼に来られた。「趣味が現代美術の絵画を集めることなので、生活空間にギャラリー空間を融合させたい」。住宅は、その家族のミクロコスモスである。こ の場合父親の強い思いが、世界に一つしかない住宅を作り上げた。

子供が成長するということは自我の獲得であり、当然他者の自我との格闘 が必要である。この家の子供にとっては、住宅が父の強い思いと自我との戦いの場となる。住むことによって、自らがよって立つ場を意識させられ、その意識と の相克の中でじっくりと自我を獲得する。そのようにして、住宅は「家」というミクロコスモスの、そして家族の伝統を継承する場として生き続けていくべきだ と、私は考える。
1999年9月2日(木曜日)  毎日新聞掲載

創り過ぎず、長い目で

連載も今回が最後。私は執筆しながら、改めて設計者の立場の危うさを感じさせられた。家を設計し、設計料を受け取ることが生業だが、単にハードとしての家を設計することで解決できる問題というのは極めて限られたものでしかないと思えてくるのだ。それほど、子供を取りまく状況は変化しつつある。設計は与えられた条件の中でハードづくりによって問題を解決していく作業だが、今や与条件さえわかりにくいほど、変化の速度は増し、社会は複雑化しているのである。

いじめ、学級崩壊、援助交際など、子供をとりまく環境は物理的なものにとどまらず、精神的にもおかしくなり始めて久しい。「衣食足りて礼節を知る」の反対 である。いや、もっと深刻な状況にある。日本人が持っていた細やかな情感の表現が失われつつある。コンビニの前に座ってモノを食べている子に、はしの上げ 下ろしや持ち方をうんぬんしてもしかたない。敷居を踏むなといっても、畳がどんどん減り、実感がわかないであろう。そのような日常のささいな振る舞いが、 実は日本人の美意識や感覚を形作り、日常を豊かにする知恵であった。そのソフトが無視され、単に空腹をいやすために道に座って、モノをくう。そこにあるの は原因と結果だけなのだ。

子供が自分の居場所をみつけることも相当難しくなってきた。家、学校、住宅地など、子供が動くエリアがあり、 かつてはちょっと寄り道するだけで簡単に自分の居場所をみつけられたはずだ。私は、須磨の少年事件で有名になったタンク山に2度登ったことがある。そこか らの風景は、設計者あるいは計画する者の立場で見ると、計画した時点では成功事例だったに違いない。大人の目からは非常によい住宅街である。歩車分離。緑 地帯。公園。数多い文教施設。適度な広さの宅地……。

しかし、子供から見れば、身の危険を感じるような自然もなければ、雑多な人間が集まる都会のような、自分の領域を越える刺激もない。すべてが、予定された枠組みの中にある。そして、それを越えようと思った瞬間、そこには目に見えない壁が立ち上がるのではないだろうか。

子供を取り取りまくというよりは、我々を取りまく環境が変わりつつある現在、設計や計画する者にとって重要なことは、今という一瞬にベストの答えを出すこ とではなく、未来までの時間系列のなかで考え続けることである。すべてを創り込まない計画である。そしてこの大きな変化に対処するための確かな答えは、絶 えず考え続けることにしかないようだ。
1999年9月16日(木曜日)  毎日新聞掲載