大阪の建築家 石丸信明

創り過ぎず、長い目で

連載も今回が最後。私は執筆しながら、改めて設計者の立場の危うさを感じさせられた。家を設計し、設計料を受け取ることが生業だが、単にハードとしての家を設計することで解決できる問題というのは極めて限られたものでしかないと思えてくるのだ。それほど、子供を取りまく状況は変化しつつある。設計は与えられた条件の中でハードづくりによって問題を解決していく作業だが、今や与条件さえわかりにくいほど、変化の速度は増し、社会は複雑化しているのである。

いじめ、学級崩壊、援助交際など、子供をとりまく環境は物理的なものにとどまらず、精神的にもおかしくなり始めて久しい。「衣食足りて礼節を知る」の反対 である。いや、もっと深刻な状況にある。日本人が持っていた細やかな情感の表現が失われつつある。コンビニの前に座ってモノを食べている子に、はしの上げ 下ろしや持ち方をうんぬんしてもしかたない。敷居を踏むなといっても、畳がどんどん減り、実感がわかないであろう。そのような日常のささいな振る舞いが、 実は日本人の美意識や感覚を形作り、日常を豊かにする知恵であった。そのソフトが無視され、単に空腹をいやすために道に座って、モノをくう。そこにあるの は原因と結果だけなのだ。

子供が自分の居場所をみつけることも相当難しくなってきた。家、学校、住宅地など、子供が動くエリアがあり、 かつてはちょっと寄り道するだけで簡単に自分の居場所をみつけられたはずだ。私は、須磨の少年事件で有名になったタンク山に2度登ったことがある。そこか らの風景は、設計者あるいは計画する者の立場で見ると、計画した時点では成功事例だったに違いない。大人の目からは非常によい住宅街である。歩車分離。緑 地帯。公園。数多い文教施設。適度な広さの宅地……。

しかし、子供から見れば、身の危険を感じるような自然もなければ、雑多な人間が集まる都会のような、自分の領域を越える刺激もない。すべてが、予定された枠組みの中にある。そして、それを越えようと思った瞬間、そこには目に見えない壁が立ち上がるのではないだろうか。

子供を取り取りまくというよりは、我々を取りまく環境が変わりつつある現在、設計や計画する者にとって重要なことは、今という一瞬にベストの答えを出すこ とではなく、未来までの時間系列のなかで考え続けることである。すべてを創り込まない計画である。そしてこの大きな変化に対処するための確かな答えは、絶 えず考え続けることにしかないようだ。
1999年9月16日(木曜日)  毎日新聞掲載