大阪の建築家 石丸信明

適度なリスクは必要

階段に手すりがない住宅をつくることがある。それは私自身が納得した上での判断であり、オーナーにも図面を見せたり現場で説明したりしてのことだ。それで問題はないのだが、第三者からはなぜ手すりが無いのですかと尋ねられることがある。

実際、階段は住宅の中で最も事故が起きやすい場所であり、階段を上り下りする時は不安になるものだ。建築基準法にも階段に手すりを設置しなさいと書かれて いる。が、階段の手すりそのものの規定はない。私は階段を設計する際、踏面や段差などの寸法に細心の注意を払う。また、少しでも心理的不安感を和らげるた めに、階段付近の採光や照明器具の位置に配慮をする。この手すりがない階段の場合には、上り下りの心理状況を踏まえて、片側に寄り添える壁をきちんと作る。人間は不安を感じれば本来は手すりを設置する側を歩かず、安心出来る壁に沿って上り下りする。子供というよりも人間の空間感覚を信じて、手すりを設置 しないのだ。

子育てに、子供が学習出来る程度のリスクを設定することは重要なことでないだろうか。子供も学習しながら、あるいは人間の本能的な勘を養いながら、その問題に対処し、さらにはそれを楽しむ余裕を得ることができる。住宅の手すりの問題は、例えば一般大衆を相手にする池のさくの 問題とは、質が違う。池では、もし事故が起きれば管理者がその責任を取らされるため、結果的にさくを設置し立ち入り禁止とする。事故の責任という問題のた めに、池で遊ぶことや、釣りをすることなど、池に関する多くの可能性が取り上げられてしまっている。

住宅の場合は、個人の責任の範囲で その問題に踏み込むことができる。もちろん、オーナーと設計者の納得行くまでの議論が必要であるが……。宮崎駿のアニメーション「となりのトトロ」では、 少しやんちゃな女の子メイが、森に遊びにいくことから親の知らない世界を見付けていく。子供は親の従属物ではなく、どこかで親と違う可能性を見付けて行か なくてはならない。

安全という神話は両刃の剣である。事故が起きると、日本では、個人の責任よりも管理者の責任が追求されるが、本当は 事故が起きないように個人の自覚を育てる方がよいのではないだろうか。対症療法はどこまでいっても後手に回ってしまうが、予防療法は本人の新たな可能性を 引き出すこともある。安全という言葉は、個人の主体的判断を停止させてしまっているかもしれない。むしろ、安全でない階段だからこそ、主体的判断が育ち、 遊びが創り出されることもあるのではないだろうか。
1999年9月2日(木曜日)  毎日新聞掲載