大阪の建築家 石丸信明

石丸信明のヒトとモノの物語

屋根という形式

先日、新幹線で東京から大阪へ移動する間、美しい屋根はあるのかと気になり、屋根ばかり見ていた。残念ながら美しい屋根は、ほとんどない。美しい屋根は、古い民家の家並みが残っている集落の屋根だけである。
ある集落では、家は東西を軸に配置され、切妻屋根が架けられている。基本的には平屋である。外壁は、土壁や杉材で出来上がり、瓦が乗っている。
建物の上部にたまる水を処理する技術は、屋根を架け水を処理する方法か、防水により一旦屋上面に水をため、樋等で建物の外側に流してしまう方法がある。後者は、近代建築という概念が設定された1920年代以降の話である。世界各地において、古くから屋根が使用されている。単純な形式であるが、単純であるが為に色々なことをあぶり出す。
材料に関して言えば、基本的には近くで手に入る自然素材である。木、瓦、土等。瓦は、土を焼いて製品としているが、材料は1次生産された素材である。工業材料のように、大量のエネルギーをかけ、ある目的に特化させてはいない。自然素材と工業材料の違いは、リサイクルという廃棄の問題を考えただけでも、大きな違いがある。また、その土地の水がはぐくんたお酒と魚が合うように、その土地の生活に合ったモノであるかという繊細な設定をしただけでも、工業材料は齟齬をきたす。合目的化を進めれば進めるほど、反面その目的以外に対しては配慮していないことになる。素朴な自然素材の体系は、じつは色々な意味を内包できる。
また、自然素材を使って、モノを作り上げると色々な機能を持たせることが出来る。庇が伸びた屋根は、直射日光を遮り地面への反射光を招き入れる。光をコントロールする。高温多湿の日本で、空調機なしの生活を送るために床は地面から上げられ、人にやさしい風を誘い込む。大きな屋根は、家族の象徴でもある。集落で連なった屋根は、美しい街並みを形成する。
素材を使いモノを作り上げる時に、一方ではその目的を明確にしていくことも重要であるが、素材が内包している潜在能力を見極め、モノが持つであろうアフォーダンスも考慮する必要がある。極端な言い方をすれば、工業材料で作った屋根と自然材料で作った屋根は、水を処理するということは同じであるが、世界が違うのである。自動車の部品は、約20万点で、その内2000から3000点の金型を作らなければならないそうだ。自然素材で作った住宅とは、全く違うモノの在り方である。

RECOワークテーブルの感触

RECOワークテーブルは、木材の再生素材であるパーティクルボードとアルミの型材からでき上がっている。組立は、六角レンジを使いステンレスのビス8箇所で固定する。もちろん、完全リサイクル出来る家具が、我々の重要なコンセプトのひとつだ。
このRECOワークテーブルを持って、2002年10月22日から10月26日までヨーロッパ最大のオフィス家具の見本市であるケルンメッセORGATEC2002に「RECO PROJECT」を出展してきた。
ブースに訪れる反応が、各人各様各国各様で興味深かった。
アルミとパーティクルボードが、ぞろに収まっている。ほとんどの人は、このRECOワークテーブル天板部分のパーティクルボードとアルミを不思議そうに撫でていく。パーティクルボードは、ドイツでは非常に安価な素材であり、ホームセンターで売られ、一般の人にもよく目にする素材である。アルミは、北欧では生産していなく、また一般的には生活基盤材として使われ素材には高級なイメージがない。それが組合わさると、自分達の持っている固有のイメージをジャンプしてしまうのか。そのとまどいを、かき消すように撫で、触覚で確認したくなるようだ。素材に対するイメージは、各国各様、日常の生活の中で作られてしまっている。
モノは、性能を設定し、素材を組立て、道具となる。人間とモノの関係の中では、新たなエモーショナルな関係が成立する。トヨタが高級車を開発するときに、ドイツ車の様に扉を閉める時のシュッポットいう音が重要な課題だったと聞いている。そういえば、アメリカ車は、パッシャという音の車が多い。単に、車の性能と言う部分であれば、グローバルのメーカーではそんなに差異はないのだろうが、エモーショナルな部分での配慮は、実はそれを購入し、使おうとする人には重要な要素である。
RECO PROJECTは、専門の家具メーカーが関わっていない。業界からみるとアウトサイダーである。だから、素材、機能、生産、廃棄等今までの制約から自由になれる。モノとしてだけではなく、それを使う人にもエモーショナルな働きかけをしたい。働く姿もイメージしたい。我々にとって、それを発展させていく為には、人々の中に眠る感性の海を渡りきらなければならない。
なお、リサイクル原料をはじめとする環境に配慮した素材を用いた新しい商品を募集する国際的なデザインコンペティション第6回「記憶のデザイン」コンペティションで RECO(レコ)ワークテーブルが優秀賞を受賞に決定した。(記憶のデザイン http://www.amita-net.co.jp/DwM

カフェ・デ・マーゴのテーブル

先日、久方ぶりにパリ サンジェルマン ヂュプレに、あるカフェ・デ・マーゴを訪れた。相変わらず私を含む、パリの異邦人で満員だった。中でも、久しぶりに驚いたのは、そのテーブルの狭さだ。二人掛けのテーブルは、幅63cm、奥行き53cm、高さ70cm。その脚は、座る人にとって邪魔になる。さらには、全体の中でぎゅうぎゅうにレイアウトされているため、椅子に座ると店の人がぎりぎりまで机を押し込む。この寸法感覚は、恐らく平面図に描いてみると、私自身成立していないと判断する狭さだ。しかし、それを補っているモノがある。人の会話だ。皆のおしゃべりの中では、不思議と自分たちの会話に没頭できる。うまくはまれば他人の会話は、人の高揚感を刺激する。カフェ・デ・マーゴでは、他人の会話が、まるで自分たちの会話のバック グラウンド ミュージックのように聞こえる。お仕着せの音楽よりも、勝手にしゃべっている人の会話が心地よい。サルトルやボードワールの議論の場であったことがよくわかる。決して、静かなカフェでお互いの会話に集中したのではなく、皆がわいわいがやがやとやっている中で自分たちの会話をもり立てていったのであろう。さらには、天井が高い。平面的な圧迫感が、空間のボリュームの中でうまく解消されてしまう。
その前1週間ドイツに滞在していたのが、このような経験は皆無だった。もちろん、アメリカでも。さらには、最近の日本でも。どこの場に居ても、一人当たりの寸法はきちんと確保してある。決して、その狭さをヒューマンコンタクトを取りながら補うところまで、寸法が追いつめられていない。むしろ、ヒューマンコンタクトを避けたところで決まってしまっているのであろうか。フランス人の会話への興味、さらには人とボディコンタクトもいとわず、人とコンタクトを取ろうとする人間好き。それが、このカフェ・デ・マーゴの雰囲気を形成している。人との会話を楽しむことがが最高のサービスであれば、広いことよりも狭いことの方がいい。そういえば、以前渋谷神泉にあったおいしい蕎麦屋では、蕎麦にありツくために皆がいちいち謝りながら椅子をかき分けていた。会話や味は、人間の寸法関係までもコントロールしてしまう。ふと、考えさせられたカフェ・ド・マーゴのテーブルであった。

ゴルフのアンテナ

かれこれゴルフという車に15年以上乗っている。現在のは、93年モデルのGTIだ。丁度モデルチェンジする少し前の年式で、なかなか乗り心地が良いと勝手に思っている。しかし、10年、走行距離10万キロを越える頃から、あちこちパーツの不具合が生じてきている。
アンテナは、屋根後部中央にピント約30度の角度で上向きについている。もちろん金属を芯材にしてあるのだが、耐風圧に対応するために屋根との接する部分は、強化ゴムで出来ている。この部分が経年変化で割れてきた。日本の修理工場を通じて、アンテナの部品の取り替えを打診したが、どうも単純にアンテナだけでなく、受信器本体と一緒にしか売らないという。仕方がないので、ドイツに行った際にフォルクスワーゲンのサービス工場を訪れ、その部分だけ買い求めることにした。アメリカ人の知人と訪れたのだが、担当のパキスタン人は始めは何のことか理解しがたい顔をしていたが、やっと理解して頂き、その部品と、新型の渦巻き型のアンテナを持ってきた。喜んで、ドイツ土産にシンプルな方を買っていった。
建築のパーツは、基本的に汎用性のある材料を基本にしているので、基本的に不具合が生じると取り替えたり修繕することは可能だ。しかし、車のようなプロダクツの場合は、もちろん全てを汎用品で対応することは出来ず、その型式独特のオーダーメードの部品が必要になってくる。自動車修理工場の人が言っていたが、少し年式が落ちると日本の大手自動車メーカーでさえ、主要な部品の在庫がない場合があるそうだ。仕方がないので、鉄工所に頼んで対応しているとのことだ。大量生産の部品を、オーダーメードで鉄工所に頼むなんて少し変な感じだ。車は、ベルトコンベヤーで大量に分業で作っていくのだが、使用されると時間の経過と共に各パーツは確実に消耗していく。
そんな夢みたいな話しはないのだろうが、全て汎用品で出来た車があれば、永遠にのりこなしていけるのではと思う。そういえば、先日ノート型のパソコンのACアダプターが壊れてしまった。それを取り替えるのに5万3000円かかるという。ACアダプターは、全ての商品に違うモノがついている。ひとつのアダプターにアダプターのアダプターを取り替えることで対応出来る技術自体は難しくないとは思うのだが。

便器の水たまり面

古来日本では、便所のことを川屋、御不浄と言い、日本人固有の便所観があります。ベトナムのフエのフォン河を舟で川下りをしていたときに目にしたベトナム流のトイレは、河に向かって台があり、しゃがむと目線が合わないようになっています。人は便意を催すと、その水面に作られた台に上り、河に向かってコトを行う。恐らく、昔の日本の川屋もこのようなものではなかったかと考えられます。
谷崎潤一郎の「陰影礼讃」においても厠について言及し、つくづく日本建築の有難みを感じると言っています。「ある程度の薄暗さと、徹底的に清潔であることと、蚊の呻りさえ耳につくような静かさとが、必数の条件なのである。」便所は、人間にとって排泄する快感の場であり、実は楽しむ場所なのです。
日本では、ほんの40年前には、洋式便器を余り目にすることはありませんでした。インフラとしての下水道が整備され、便器が和式から洋式に。更に洋式便器の洗浄方式が洗い落とし式や、サイホン式からサイホンゼット式に移行するにつれ、水たまり面が大きくなってきました。
便器は、実はこの水たまり面の大きさが、使う人の意識を変える重要なポイントなのです。汚物が、直接水の中に落下するので、臭いや汚れの問題がかなり解決されるようになりました。
便所の住宅の中での在り方が、実はこの設備面での進化と共に変わってきた歴史があります。くみ取り式の和風の頃には、如何にに母屋から離し、臭いの問題をクリアーするか腐心していました。下水道が整備された和式便所の頃には、便器の廻りのそそうを解決するために床、壁がタイル貼りの水洗いできるスペースでした。しかし便器そのものがそれらの問題をかなり解決してくると、便所の仕上げ自体も一般居室並になってきています。
便所がより生活の中に組み込まれていき、もうすぐ、アメリカのホテルのようにあっけらかんとバスの隣にあったり、ひょっとすると、ダイニングの直ぐ横に便所があっても気にならないような意識を持てる日がやって来そうな気がします。